『京阪奈の蕎麦打ち』


以前、京阪奈(けいはんな…京都と阪神と奈良の真ん中ね)の研究所に出張した時の事。
帰り際、研究所の教授に声をかけられた。

「キブンさんは蕎麦は好きですか?」
「ええ、まあ好きですけど…」
「明日は何か用事はありますか?」
「いえ、明日は土曜日ですから、何もありませんけど…」
「よろしければ、今晩うちに泊まって蕎麦を打ってみませんか?

なんちゅう、突然の申し出!
う〜ん、しかし何やら不思議な展開や…
蕎麦打ちかぁ〜
まあ、なんか面白そうやん。
虎穴に入らずんば虎児を得ず…違うか…。

「打ってみたいです…」
私のこの口がそう返事していた…後のことなど考えず、私のこの口が…。

「じゃあ、さっそく買い物に行きますか。」
展開早いなぁ〜!
それから教授と二人スーパーへ。

何やら楽しげな教授、男二人でスーパーで買い物…
待てよ…気軽にホイホイ着いてきたのはいいものの、もしかしてこれは非常にマズイ状況ではないのか?
家に行ったら、男二人…そして…夜…
貞操の危機…。

「あの…きょ、教授…、つかぬ事を伺いますが、今晩蕎麦は何人前打つのですか?」
「キブンさんと私と妻の分で三人前ですね。」
「あっ…そうですか…三人前ですか…」
ふぅ〜…ひとまず貞操の危機は無さそうや…一安心。

そして家へ。

「さあ、どうぞどうぞ、遠慮なく」
教授の後について、客間に通される。
しばらくすると、教授が机に巨大なお椀のような物、こん棒、まな板、包丁、そば粉などを並べ始めた。
これか!蕎麦打ちセット!なかなか本格的やん。

「じゃ、お願いしますよ。」
教授は私を残して台所に消えようとする。

えっ!えっ!えっ!

「教授!お願いしますよって…私は何からお手伝いしたら…」
「ああ、私は今から台所で薬味を作りますから、キブンさんは蕎麦打ちをお願いします。」
「お、お願いしますと言われましても…」
「そこにビデオがあるでしょう。それ見ればできますから。」

確かにそこには一本のビデオテープが。
巨大なお椀の陰に置かれた一本のテープ…そのテープの背表紙には…
”蕎麦職人への道”
蕎麦職人への道って、ああた…。

一人取り残された私と一本のビデオテープ、しばしまんじりと睨むもこのままでは時間だけが過ぎていく。

おそるおそる私はビデオデッキにそのテープを差し込んだ。

軽快な音楽とともに始まった”蕎麦職人への道”。そば粉のまわし方から始まり、職人はどんどん作業を進めていく。
そして練りへと…。
いかんいかん、ビデオぼ〜っと見とる場合やないぞ!
誰も教えてくれんこの状況、そして私の師匠はこのビデオのみ。退路無し!

「妻はあと一時間ぐらいで戻りますので、よろしくお願いしますよ〜!」

台所から教授のゲキが飛ぶ。

こりゃ!やるしかないばい!
急いでビデオを巻き戻し、再生してはビデオと同じ作業を繰り返していく。
止めては作業、巻き戻しては作業…えらい忙しい!
ビデオのリモコンはすでに粉だらけ。

しかし…同じようにやっているはずなのにビデオの中の状況と、私の状況は段々かけ離れていく…。

それでもどうにかこうにか、やっと蕎麦打ちが終わり、今度は蕎麦切り。
ビデオでは簡単そうに同じ幅で切っていくのに、私の蕎麦ったら…。

そうこうしているうちに奥様ご帰宅。

「今日はキブンさんが打ってくれた蕎麦ですよ〜。」と台所からお気楽な教授の声。
そのころ必死の形相で蕎麦を切る私。

そして、なんの因果か、今日初めてお会いした教授と奥様と三人で私が打った蕎麦を食う。
なんやろ、この不思議な状況。

「キブンさんの蕎麦はちょっとボソボソね。オホホホホ…」と奥様。
おっ!奥様!私がどんな苦労をして、ここまで漕ぎつけたと思っていらっしゃるのか…。

「なら、あなたがビデオ見ながら打ってみんさいっ!」と心の中でつぶやくも…
いや、待てよ…、奥様もすでに”蕎麦職人への道”を通ってこられたのか??

まあ、こうして初めての蕎麦打ち体験、楽しい夕食の時間は過ぎていったのであった。
めでたしめでたし。



その後お風呂をいただき、解散。
私は客間で一人、布団に入ったままビールを飲んでいた。

そうすると、「キブンさん…、ちょっといいですか?」と襖の向こうから教授の声が…。

やっぱり…貞操の危機か!!

「あっ、はい、どうぞ!」

ここに及んで教授は予想だにしないことを言い出したのである。

「キブンさんは篆刻(テンコク)には興味ありませんか?」
「て、篆刻って、あの印鑑彫るやつですか?」
「そうそう、その篆刻です。」
「まあ、興味あるか無いかって、聞かれれば…まあ、ありますけど…」

「あっ!そうですか!それではちょっと待っててくださいね。」

思いっきり嫌な予感…。

戻って来た教授の手には石の篆刻セットと一冊の”篆刻入門”が握られていた。

すでに夜11時、ここからまた新たな作業…
眠い…とてつもなく眠い…しかし、うとうとしながらも石を彫る私。

そして…結局、作業は深夜2時に及んだ。
わざわざ京阪奈まで来て私は何をしているのだ…。

疲れた…、もう疲れたよ…パトラッシュ…
私はやっと寝ることを許され、深い眠りへと落ちていった。

その時作った印鑑は、今も私の実印として使われている。